「雪のふるさと・新庄」は雪害救済運動発祥の地です

『雪調』設置までの道のり

雪害救済運動の先駆者 松岡俊三の偉業

「雪国行脚」に発つ時の出で立ちの松岡俊三

「雪国行脚」に発つ時の出で立ちの松岡俊三

 山形県楯岡(現村山市)出身の衆議院議員松岡俊三(1880~1955)先生は、雪国救済を語る上で欠かせない人物である。

 松岡先生は、大正末から昭和初めの雪国農村の窮状を目のあたりにして雪国救済の必要性を強く感じ、政府に対してそのための施策を強く訴え続けた。それはやがて政府を動かし、雪国に暮らす人々の生活を向上させる道を拓くことになるのである。

 訴えの趣旨は、積雪と寒冷による各種の被害や不利益は台風や洪水などと同じ自然災害であり、国として救済すべきであるというものである。この考えに対する理解を広めて、救済を求める民衆の運動に高めようと、厳冬期に身の危険をも覚悟して豪雪の各訪問地に向けて「雪中行脚」に出たのである。雪の害に関する実態調査と、啓蒙つまり雪により被る害や耕作上の不利に対する諦念から人々を解き放つことに力を注いだのである。


 その後、自らの足を駆使した調査で明らかにしたことにもとづいて、政府に対して救済の必要を実証的に訴え続けた。

 その不撓不屈の活動はついに国を動かし、東北全市町村に「特別市町村」として交付金を増額するなどの法令が昭和7年に成立し、救済が国の施策として初めて施行されることとなった。その一環で、積雪地方農村経済調査所は翌8年に、わけても、松岡先生の訴えに共鳴し熱く支持した新庄に設置されたのである。こうして、雪国の窮状を国として救済し更生させる道がようやく拓かれたのである。

 その後の雪国振興施策の進展は、終戦を経て新潟県を拠点に設立された(日本積雪連合)の請願で実現しつつ現在に続いているが、それというのも、戦前に松岡俊三先生が先駆者となって政府を動かす潮流を起こしたからであるといえる。

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